人との縁は、自然に切れることはありません。
そう言いきっていたのは今は亡き小林正観さん
「袖すり合うも他生の縁」と言う言葉がありますが、少しわかりにくいと思いますので、説明します。
故事ことわざ辞典によると
人との縁はすべて単なる偶然ではなく、深い因縁によって起こるものだから、どんな出会いも大切にしなければならないという仏教的な教えに基づく。
「多生」とは、六道を輪廻して何度も生まれ変わるという意味。 「多生の縁」は、前世で結ばれた因縁のこと。 「袖擦り合う(擦れ合う・触れ合う)のも多生の縁」ともいう。
出会った人とはすべて大事にすべき「他生の縁」があるようです。
その縁切れる時は、自分が気がつかないうちに自分から切っているようです。
前出の正観さんは、
出会ったときは名もなき若者であっても、10年後に社長になっていて、思いがけないところで助けてくれる人であるかもしれません。そう考えると、誰かを大事にして、誰かを大事にしないと言う事は出来なくて、出会う人すべてをおろそかにできないのです。と言っています。
私はラッキーだった、ツイていたと言える人は、神仏、守護霊、宇宙を味方にしてきたという事なのかもしれません。
そして、ラッキーで運がよくて生きてきたと言えるということは、「おかげさま」で生きてきましたと、言っている事なのでしょう。
私も思いますが、「自分」の力や実力だけで生きてきたのではないと思います。みんなのおかげで、目に見える存在、見えない存在、そんなみんなのおかげで生きてきているのだと思った方が良いと思います。
多くの人は人に迷惑をかけてはいけないと教わってきていますし、確かにそうなのですが、物事の本質がわかると素直に人のお世話になることが出来るようになります。
自分ひとりでちゃんとやっているつもりでも、たかが知れていると言う事がわかってきますと、人に甘えて生きる事が出来るようになると思います。ただ本質と言うのを追求しないまま甘えて生きていく人は論外だと思います。
この辺りが微妙にややこしいのかなって思っています。
正観さんは面白い事を言っておりました。
失脚と言う言葉は、「脚」を「失」うと書きます。
この日本語は大変重要な事を教えているそうです。
今まで支えてくれていた「脚」を失った状態を「失脚」と言っているのです。
失脚と言う場合、その人はそれまで、自分の努力で自分の脚で立っていたと思っていたかもしれませんが、実はその人を支え、押し上げてくれたものから見放されてしまったと言うだけの話です。したがって、「失脚」したら、人間は人の間で生きていると言う事を改めて思い知るのでしょう。と同時に、自分の実力だはなく、すべて「おかげさま」なのだ、と言う事に思い至るのです
人生という旅の中で出会った人すべてを味方にして行く事が、人間の本質なのだと思っていますが、反対にお世話になった人への感謝を忘れていると、もう支援してもらえないどころか、敵を作ってしまう事にもなりかねません。
「恩を忘れてはならない」そう昔の人は教えてくれました。
生きていくと言うのは、味方を作っていく作業だと思います。
どんどん味方を増やしていくと、その後の人生もずっと豊かで楽しいものになっていくと私は思っています。