追い込まれた美容室の決断
前店長が店を去った後、店にはチーフが指揮を取っておりました。私が勤めていた美容室は、JR下関駅前一等地に建つビルの5階に、私が美容師の修行に入って半年後に華々しくオープンをしていました。
オーナーの夢を現実にしたそのお店は、セットブースも10台あり、シャンプーブースも4台備え、50坪あるような広い素敵なお店でした。しかし、ビルの事業計画の変更で6階に移転しておりました。
そこに、テコ入れとして入店してきた、店長に私は、しごかれ、技術も習得していったのですが、肝心のカット技術はほとんど見てるだけでしたから、実際、本当に毎日多くの人の髪の毛を切りながらでも、わからない事ばかりで、日々落ち込み、技術に対して悩んでおりました。その悩みを聞く人もいなかったのです。
先輩に聞いても、わかるように教えてくれる人もいませんでした。実際そんな現場で当時は、技術のスピードだけを大事にしているような、ワンマンなオーナーのもとで、営業をこなしていました。
現場での実権を握ってきた店長は、理論派でしたから、感性だけで美容をしてきたオーナーと衝突するのは時間の問題だったと思いますが、いくら前向きな言葉を言っても、当時の美容室ではやはり経営者の方が強く、店長は店を去っていきました。
かたやまくん!店長にならない?
ある日・・・オーナー先生に呼び出されました。そこで言われた言葉が、「あなたは若いから、これからの店をあなたに任せてみたいの。店長やってくれない?」
勘弁して下さい!無理です!!
そう私はとっさに返事しました。だって技術的に先輩たちが上に4人いましたし、特に上2人はかなりのベテラン技術者でした。すべて女性でしたが年齢も私に近い方でも3歳年上!私は22歳。スタッフ数は総勢17名
それでも、先生は全く動じることなく、あなたなら出来る・・・私が側にいるから・・・なんて持ち上げながら説得されていくのです。もともと学生時代からそれなりのポジションでリーダーは経験していましたが、さすがにこの時ばかりは、躊躇しましたね。
やる羽目になるのは運命
生まれた時から22歳までの運命といえばそれまでですが、先生は、私が19歳の時に交通事故を体験し、その頃からの仕事への打ち込み具合をずっと見ていたのでしょう。確かに私は19歳の年末に起こした事故から、人が変わったように仕事に打ち込み始めました。
それは店の仲間たちに救われたからです。嘘をついて車の免許を取得し、度重なる事故で迷惑をかけて言った私に、仲間は凄く優しく接してくれました。怖くて怖くて家にいられない私を、店長の家に呼んでくれて、そこに行くとほとんどのスタッフが、そこに駆けつけて私に暖かい声をかけてくれ、一晩中側にいてくれたりしました。
私がその時感じていたのは、この人達の為に今からはがんばる!それだけの思いで日々仕事に打ち込んでいた記憶があります。実際休みの日もほとんど手伝いに店に行って仕事をしていました。そんな姿をずっと見ていたのが先生でした。だから、技術はまだ未熟でも、3年ぐらいの間必死で仕事を覚えようとしている若者にかけてみようとしたのだと、今では感じています。
自分の為で動くよりは人の為の方が力が湧くもんです
やはり人間というのは、人の為に何かをしようとすると意外と継続して色々な事が出来るような気がします。これが自分の為だけにやっていきますと、息切れを起こして、途中でやめてしまったりする事が多くあります。
でも・・・結局は自分がやってきた事は、自分に返って来るんです。
子供の頃から、ばあちゃんに言われていた、【平生が往生】という言葉の重みは、いくつになっても忘れられない、素晴らしい言葉だと思いますね。
結局、店長という重大な任務を引き受けるのですが、22歳と10カ月でした。17名いたスタッフの3名は任命を受けた翌朝の朝礼には参加してくれませんでした。
波乱の美容室店長としての船出でした。