今日は1月7日ですが、
明日は親父の命日になります。
私が26歳の時でした。
「親父、今年結婚するけぇの」
そう、亡くなる4日前に、酒を飲みながら伝えました。
「お~そりぁええ。俺も応援するけぇの」
久しぶりの、姉、兄そして私の4人の場での事でした。
私の親父は、決してほめられた男ではありませんでした。
私が、物ごころついた時から、酒を飲むと人が変わり
何度も、母親に連れられてよその家に逃げていってました。
幼いころの嫌な思い出は、成長期になりますと
反発という形で、親父に立ち向かうようになります。
でも、どんなに自分が反発しても
親父はへらへら笑っていました。
酒を飲んで、荒ぶる親父に14歳のころ
押し倒し、こぶしをあげ馬乗りになった事もあります。
そんな場面でも、親父はへらへら笑っておりました。
「笑い」「クソ笑い」「うすら笑い」「バカ笑い」
笑いにもいろいろありますが、
笑う相手に、怒りをぶつけても
すべて吸収されてしまいます。
私は、それを中学生の時にオヤジに教えられました。
気がつくのは、ずっと後の事です。
自分が美容師になって、まだ駆け出しのころ
店の近くで親父に出くわしました。
立派なオヤジではなかったので、
「お~」・・・ぐらいなもんです。
でも、やっぱり親父は
私を見て、笑っていました。
私は、親父がこの世を去った55歳と2ヶ月をなんとか越えたい
と思って生きてきました。
じいさんも55歳で亡くなっていたからです。
それを越えた今、思う事があります。
「あなたのおかげで今の俺がある」
そうとしか思えないのです。
どんなに荒ぶれていた親父でも、
どんなに家族に迷惑をかけた親父でも
全くカッコ良くなかった親父でも
大人になっていく息子の前では、
へらへら笑ってくれていました。
ぶち殴ろうとしても、
無愛想な息子の態度でも
いつも、へらへら笑っていました。
親父は、腕利きの理容師でした。
評判は、後で多くの人に聞かされました。
じいさんが理容師でしたから、
家も理容室を営んでいました。
後を継いだ・・・そんな感じですが
私が、物ごころついたころには、大工をしていました。
幼いころ、散髪が大っきらいな私でしたが
写真で親父に切ってもらっているのを見たことがあります。
そんな、私が、唯一親父にカットの事で聞いた事があります。
それは、「刈り上げの仕方」でした。
わずか3秒の言葉でした。
「斜めに切り上げろ」
その言葉がどれだけ自分の刈り上げ技術を向上させたかは
当時、下関では美容師が刈り上げができる人は皆無でしたから
救われました。
今から、30年ぐらい前の話です。
門前の小僧という言葉がありますが
まさに、私は、親父やじいさん、そしてばあさん、おばさん
全て理容師でしたから、
幼いころから、記憶はなくても、「血」として
「血統」のように受け継いできていたのです。
その証拠に、カットに入りたてで、まともにカットデザインもできない私が
当時流行りだした、テクノカットに付随した、刈り上げ技術を
講習もなく、東京のサロンで流行りだしたと言う情報だけで
従業員を犠牲にして、見よう見まねと、
自分が男だから、角刈りをした事があったので
その経験で、2時間ぐらいかけて刈り上げを完成させました。
その仕上がりをみた女性オーナーが、
しばらく黙りこんだのを今でも鮮明に覚えています。
理由は、カット駆け出しの若造が、作った刈り上げラインが
当時の美容師の技量を凌駕していたからです。
これは、自分がカットがうまいとか、自慢したいとか、そんな話ではありません。
ただ、「血統」なんです。
引き継がれてきたものってあるんです。
だからこそ、今この歳になって
親父に感謝できる自分がいますし、
多くの人に、感謝ができるようになった
片山が存在します。
全ては、「親」がいたおかげなんです。
親父・・・あなたを選んで生まれてきてよかった。
本当によかった。
あなたが、教えてくれた26年間があったからこそ
今の俺があります。
今、俺は凄く幸せです。
美容師としても、きっちり先代の技術を引き継いだと思っています。
どんなに時代が変わっていっても、髪の毛に携わる「片山家」の
血統だけはなくさないように、俺が土台を作ります。
その証拠に、俺の娘は美容師の仕事が
楽しいって言ってくれてます。
いつか、俺がそっちに行った時は、
一緒にうまい酒また飲みましょうね。
楽しみにしています!